トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(2)

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<巨匠たちに学ぶ>
 強い音楽的個性が人気を博し、演奏スケジュールが多忙を極め、特に必要の無い限り練習をしないという贅沢を味わっているフラナガンではあるが、かつて1940年代のデトロイトでの成長期には、常に練習していたと語る。兄ジョンソン・フラナガンJr.(ピアニストとして地元デトロイトで活動し、後進の指導にあたった。弟子にはカーク・ライトシーがいる。)に倣い、迷うことなくピアノへの道を選択したのだった。
 「ほんの幼いころ、兄がピアノを弾いてるのを見つけた。背伸びをしてなんとかピアノによじ登ろうとした。最初は、兄が家でレッスンをしているのを真似て弾こうとした。8歳の頃、まだレッスンを受けていなかったが、兄の練習曲を弾いていた。10歳で、やっとレッスンをさせてもらえるようになった。私は練習がとても好きだったので、誰も私に稽古しろとやかましく言う必要は無かった。むしろ誰かが止めないといけない程だった。『さっさと表に行って遊びなさい!』ってね。」
youngKB.jpg 当時のモーター・シティ(デトロイト)は、ツアー・ミュージシャンの仕事場として、新人アーティストの育成地として、音楽的に隆盛を極めた。ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)、ペッパー・アダムス(bs)、カーティス・フラー(tb)、メジャー・ホリー(b)、オリヴァー・ジャクソン(ds)、ビリー・ミッチェル(ts)、ハンク(p)、サド(cor)、エルビン(ds)のジョーンズ兄弟(隣町のポンティアック育ち)、ベティー・カーター(vo)…この土地から巣立ったミュージシャンは枚挙に暇が無い。デトロイトのミュージシャンの多くは、カス・テック・ハイスクールに通った。フラナガンは1930年3月16日生まれで、同世代のローランド・ハナ(p)やアルト奏者ソニー・レッドと同じノーザン・ハイスクール卒である。
 「中学に入学する頃までには、他の楽器をかなりうまく弾ける同じ年頃の子供達が何人もいた。そんな優秀な子供達は、高校入学までに、プロとしてツアーに出れる実力をしっかり身につけていた。私が15歳の頃時、ダンスパーティに行けばジーン・アモンズ(ts)が演奏していたし、バンドのピアニストはジュニア・マンスだった。彼も15歳でツアーに出ていたんだ。そんな具合だから、いやでも一生懸命練習する様になるんだ。」フラナガンは語る。
art_tatum.jpg 「音楽的に成長するのに、戦後は良い時代だった。私はあらゆるジャズの巨人たちを間近に聴けたし、会うことだって出来た。アート・テイタムはアフターアワーズの店でしょっちゅう生で聴いた。色々なピアニストが、交代にピアノを存分に弾いた後、おもむろにテイタムがピアノの前に座ると、それまでのピアニスト全員がぶっ飛ばされた。」
Image-BillieHoliday.jpgのサムネール画像レイディ・デイも、歌唱とルックスの絶頂期に生で聴いた。私はまさに彼女に恋をしていた。バードともデトロイトで何度か共演した、私がまだ十代のときだ。」
 「高校時代、ディジー・ガレスピー楽団がデトロイトにやって来た。公演場所はパラダイス・シアターと言う大劇場で、高校から歩いて行ける距離だった。その頃までに有名なミュージシャンは全て知っていた。初めてチャーリー・パーカーをジューク・ボックスで聴いたのが1945年、15歳の時だ。
 もう、そんなジュークボックスは無くなってしまったなあ。良い音楽が流行していて、良い音楽に出会うにも、上達するにも、最高の時代だった。今は、そういう音楽が無くなって寂しいし、そういった音楽を創造した人達が亡くなった事も同じくらい寂しいね。」
John_Coltrane___Giant_Steps.jpg 1956年、ケニー・バレル(g)と共にNYのジャズシーンに進出したフラナガンにとって、デトロイトでのキャリアは大きく幸いした。NYに移って僅か数日で、トランペット奏者、サド・ジョーンズが自己リーダー作に彼を抜擢。フラナガンの26歳の誕生日には、デトロイト時代にすでに親交があったマイルス・デイヴィス(tp)とソニー・ロリンズ(ts)がレコーディングに起用した。プレスティッジのセッション(『Collector’s Items』)には、<Vierd Blues><No Line>、デイブ・ブルーベック(p)の<In Your Own Sweet Way>が収録されている。その僅か数ヵ月後、ソニー・ロリンズの代表作、『サクソフォン・コロッサス』に参加、3年後には、さらに歴史的名盤の録音でスタジオ入りする事になる。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』であった。
<エラ・フィッツジェラルド>
poster040609-24.JPG フラナガンがNYに進出した年、代役としてエラ・フィッツジェラルドの伴奏者を務める。それがきっかけでエラは1962年に、正式にフラナガンを招聘、二人の音楽的コラボレーションが開始した。音楽監督として専任した1968-78を含めて、二人の共演は断続的に16年間続く。
 「歌手の伴奏はもう私のするべき仕事ではない。」現在のフラナガンは言う。
「だが、非常にやりがいのある仕事だった。他人の気質や趣味についてあれこれ気配りしなければならないのだから。…
 エラは文字通り仕事一筋で、年間52週のうち48週は仕事をする。我々は年に2回ヨーロッパ中をツアーした。伴奏者達には、余り自由に演奏させる機会を与えてはくれなかったがね。とにかく、世界中回ったよ。…」
 エラ・フィッツジェラルドの仕事に慣れたと思う間もなく、演奏のパターンはしょっちゅう変った。トリオで伴奏したかと思えば、次はベイシー楽団と一緒に何ヶ月か公演する。彼女にとっては大変な違いだ。ベイシーをバックに歌うコンサートの次の夜がトリオだったら、エラは私にこんな風に言った。
 『一体どうなってるのよ? 何が起こったっていうの?』
で、私はこう答える。
 『15人ほどいなくなったんだだけだよ。何かが起こったと言うのならね。』
  おかげで、どんなことがあっても、自分の演奏を高度に保持する術を学んだ。エラのエネルギーも芸術的レベルも本当に凄いものだったよ。」
(つづく)
 寺井尚之のコメント::師匠の若いときの回想は、わしが’70年代に思うことと良く似ています。師匠は、どんなときでも、誰よりも練習をしていました!騙されてはイケません!おわり
 ヨチヨチ歩きでピアノを弾いた天才トミー・フラナガン少年、子供の頃はクラシック・ピアノのレッスンを受けていました。恩師はグラディス・ディラードという女性の先生で、フォームや指使い、タッチなど大変厳しい指導で有名だったそうです。
 チャーリー・パーカーやビリー・ホリディと共演した話は、私たちも直接何度か伺ったことがあります。記念写真があればいいのですが、トミーは何度も引越ししていて、その間に紛失してしまったとか・・・残念です。
 それにしても高校のダンスパーティにジーン・アモンズとジュニア・マンスが来たら、ダンスするのを忘れて、グレーヴィーなサウンドに聴き惚れてしまうでしょうね!

 明日22(金)は河原達人(ds)リターンズ!23(土)は寺井尚之The Mainstemトリオ!お勧め料理は、自家製のバジルをふんだんに使ったチキンのジェノヴァ・ソース、やはり自家製の柔らかいナスを付け合せにしておいしいメニューを作ります。
CU

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