トミー・フラナガンが、最も緊張し、最も面白かったというピーウィー・ラッセルのアルバム『The Pee Wee Russell Memorial Album』(オリジナルタイトル『Swingin’ with Pee Wee』)が今週の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。
リーダーのピーウィー・ラッセルは録音にあたって、ディキシーランドのリズム・セクションには飽々しているから、もっと活きの良い連中を集めてくれとプレスティッジ側に注文を付けたそうです。フラナガンのプレイは、ハーレム・ストライドの巨匠達からジェス・ステイシーまで数多の名ピアニストと共演してきたラッセルに、「これまでに共演したうちで最高のピアニスト!」と言わしめた。
日本式に言うと明治の男、ピーウィー・ラッセル(1906-1969)は、ビックス・バイダーベックの盟友として、またデキシーランド・ジャズの花形奏者として、後には「中間派」の代表的クラリネット奏者として知られています。それでも実際の彼のプレイは従来のカテゴリーに属さない型破りなもので、ホイットニー・バリエットは「あれほど飾り気がなく、大胆不敵で閃きに満ちた演奏者はない。」と断言し、現在のトップ・クラリネット奏者ケン・ペプロウスキは、ファースト・ノートだけで判る独特のサウンドと、有り余るテクニックや音楽的知識を敢えて取っ払う、従来のクラリネットの枠からはみ出したラッセルを「クラリネットのセロニアス・モンク」と評した。
鉄腕アトムのタワシ警部を思わせる飄々とした風貌と、しみじみ聴かせる味のあるプレイ、ピーウィー・ラッセルの人生も音楽に負けない型破りなものでした。
<甘やかされっ子>
一説にはジャック・ティーガーデンやリー・ワイリーと同じようにチェロキー・インディアンの血が混じっていると言われるピーウィーはミズーリ州セントルイス生まれ、本名はチャールズ・エルズワース・ラッセル、プロ活動を始めた十代の頃、華奢な体つきからPeewee(チビスケ)という芸名がついた。
父親は高級ホテルの給仕長、母親は新聞社勤務のインテリ女性、共働きの裕福な家庭で、母が40才の時、やっと授かった巻き毛の可愛い一人っ子がラッセル、とにかく猫かわいがりされ、大の甘ったれに育った。よその親なら叱りつけるようなおねだりも、両親ははいはいと買い与えた。ヴァイオリンでもドラムスでもクラリネットでも、欲しいものは何でも買ってもらえる羨ましい幼年時代。それでもラッセル自身は、自分が二人のお荷物で、愛されていないように感じていたようです。 幼い時に、父が友人と組んでガス田を掘り当てたため、オクラホマ州マスコギーという町に移住、再びセントルイスに戻るという子供時代でした。
幼い時は、お坊っちゃまらしく、ヴァイオリンのレッスンを受けていた。10才の時、ヴァイオリンの発表会で演奏したラッセルは、迎えの車の助手席に座り、楽器を後部座席に置くなり、お母さんが乗り込んで楽器の上にドカっと座った。 ラッセルの前途洋々なるヴァイオリンのキャリアはあえなく挫折、ラッセル坊やは「ありがたい、もう練習しなくていいんだ!」と密かに快哉を叫んだ。そんなお坊っちゃまが、クラリネットを始めたのは12才の頃で、町唯一の劇場の楽団のクラリネット奏者に個人レッスンを受けました。当時のオクラホマは禁酒州(ドライステイト)でしたが、酒好きの先生は密造酒をこっそり飲みながらレッスンを行った。その姿が後年のラッセルに悪影響を及ぼしたのかもしれません。早くも14才でプロデビュー、学校に行くと言っては父親の車を乗り回して遊ぶという陽気な登校拒否児であったそうですが、音楽の勉強だけはしたくてオクラホマ州立大に進学を希望していた。そころが同居していた叔母さんが、彼の甘ったれぶりに呆れ果て「あの子の根性は曲がっているから、士官学校に入れて今のうちに真人間にしておかなくちゃ!」と両親に進言したおかげで、イリノイ州の名門私立士官学校に入学させられるはめになります。甘ったれに規律正しい生活が出来るわけはなく僅か1年で中退。同校の最も著名な中退者として記憶に残る存在になりました。ラッセルは、その叔母さんと一生口をきくことはありませんでした。
<武勇伝>
再びセントルイスに戻ってから、ラッセルは本格的にプロ活動を始めます。両親は彼のために当時400ドル近いアルト・サックスを買ってくれた!まもなく異国の地で演奏するバンマスから電報が届きます。「メキシコデ演奏サレタシ」
流血のメキシコ革命が終わって間もない時代でしたが、両親は、未成年のラッセルを、快く送り出してくれました。男たちはみんな銃を携帯し、日常的に銃撃戦が行われるマカロニ・ウエスタンさながらの土地、結構なギャラをもらったラッセルは異国の地で放蕩三昧、酔っ払って気がついたら牢屋に入っていた。
帰国後、はミシシッピ川の遊覧船で演奏し、暇があれば黒人ジャズ・ミュージシャンの演奏に聴き入りました。1920年代中盤、ジャック・ティーガーデンや伝説のコルネット奏者、永遠の親友となったビックス・バイダーベックと出会い、甘えん坊ラッセルの音楽家魂が開花します。無二の親友バイダーベックがジーン・ゴールドケット楽団に入団し町を去ると、ラッセルは「5つの銅貨」でお馴染みのスター・コルネット奏者、レッド・ニコルスに呼ばれてNYに進出。町に着いた翌日からブランズウィックの録音スタジオに入り、当時の白人ジャズのスター達とレコーディングを重ねながら、夜になるとハーレムを歩きまわりフレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントン、エルマー・スノウデンといった黒人一流ビッグバンドの演奏を聴き漁った。或る夜、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板テナー、コールマン・ホーキンスが病欠し、たまたま居合わせたラッセルが1セット飛び入りで入ることに。
「譜面を観ると、なんてこった!あんな楽譜見たことない!♭だらけでね、♭が6つとか8つ(!?)とかついてやがる…かんべんしてくれ!僕は遊びに来ただけなのに…」
ラッセルのインタビューは、どれもこれも自虐的ギャグのオンパレード、話がポンポン飛ぶのは彼のフレーズと一緒です!
<ラッキー・ルチアーノ親分、助けてください!>
「或る町で、友達が連れてきた女の子に見とれていただけなのに、ドサクサにまぎれて人を撃ち殺したことがある。」と豪語するラッセルの話はどこからどこまでが本当なのかよく分からない。ともかく’30年代中盤のジャズのメッカであった「52丁目」のスターであり、’40年代にはグリニッジ・ヴィレッジのNick’sを拠点に大いに人気を博したことは間違いありません。
’30年代、彼がルイ・プリマ楽団と52丁目の人気クラブ”フェイマス・ドア”に出演中、2,3人のヤクザな連中がプリマとラッセルに因縁をつけてきた。出演中のみかじめ料として、プリマに毎週50ドル、ラッセルに25ドルの大金を支払えというのす。「それが嫌なら、一生演奏できねえ体にしてやるぜ。」
そこでラッセルはNYマフィアのドン、ラッキー・ルチアーノに電話をした。ルチアーノが主催する宴会で何度も演奏していたから顔見知りだったんです。弱い民衆の味方であるドン・ルイチアーノは早速ボディガードを派遣してくれました。それが、マフィア史上、最も凶暴な殺し屋と言われたユダヤ系ヒットマン、プリティ・アンバーグ、顔が余りにも怖いので「プリティ」とあだ名が着いたギャングです。彼が毎晩、大きな黒塗りの車でホテルと仕事場を送り迎えしてくれたおかげで、いつの間にか、因縁を付けたヤクザはいなくなった。ひょっとしたらハドソン川に浮いていたのかもしれません。
一匹狼の殺し屋、プリティ・アンバーグはゴルゴ13と同じように無駄口は叩かない。だから毎晩一緒に過ごしても、話す言葉はHelloとGoodbyeだけ!いずれにせよ、ラッキー・ルチアーノがプッチーニではなく、スイング・ジャズのファンでよかったですね!
<奇跡のカムバック>
「麻薬をやらなくても繊細でいられた」稀有なアーティスト、ラッセルの悪癖は、盟友ビックス・バイダーベック同様、過度の飲酒。起き抜けにコップ一杯のウィスキーを呑まないと、ベッドから出られないというほどのアル中で、中年になるとだんだん食べ物が喉を通らなくなってきた。医者に行くと、胃には異常なしと言われるのに食べられない。だんだん被害妄想の症状が現れ、1948年、妻から逃げるようにシカゴに行ってしまいます。そこから3年間、彼の記憶は途絶え、気が付くと1951年、サンフランシスコの病院に入院していた。病名は膵臓炎、肝硬変、栄養失調で、余命いくばくもないという診断でした。彼は文無し、手術費用と入院費は当時のお金で$4500というとてつもない金額でしたが、多くの仲間達が立ち上がり、チャリティ・ライブを行って賄ってくれたというからありがたい!ラッセルはよほど仲間内で好かれていたんでしょうね。
彼を援助したミュージシャンの中にはルイ・アームストロングやジャック・ティーガーデンという大スターもいました。二人が見舞いに来て「心配すんな!お前を助けるためにコンサートやるから元気になってくれ!」と励ますと、ラッセルは声にならない声でこう言ったそうです。
「ありがとよ。それじゃ、新聞に何でもいいから俺の哀れな話を言いふらしてくれよな。」
パリではシドニー・ベシェが手際よく”ピーウィー・ラッセル追悼コンサート”を行ったにも関わらず、ラッセルは奇跡的に一命をとりとめ回復します。
<おもろい夫婦>
ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスに夫をこき下ろすなかなか痛快な女性です。
インテリという点ではラッセルのお母さんと似ているし、ラッセルはうんと悪いことをして、妻に「叱ってくれるお母さん」の役割を求めていたのかも知れませんね。
ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。
ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。
ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかったんですね。
ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなく、瞬く間に元のアル中に戻り、彼女の死の翌年に亡くなりました。
ラッセルの妻、メアリーはロシア系ユダヤ人でベニー・グッドマンやエディ・コンドンと親しい間柄でした。彼女の両親が下宿屋をやっていて、そこに滞在していたラッセルと親しくなり1943年に結婚。(本人談:結婚指輪も花束もないサイテーの結婚式だったわ。)彼女が会社勤めをしてラッセルの生活を支えていたのに、3年間蒸発され、それでも面倒を見続けた糟糠の妻ですが「ベニー・グッドマン以外のクラリネットなんて大嫌い。」「彼が優しそうなんて見かけだけよ。あれほどジコチューな人間はいないわ!」と、インタビューでもボロカスにこき下ろすなかなか痛快な女性です。
ラッセルの奇跡的な回復の後、また彼女は再びグリニッジ・ヴィレッジのアパートで夫と暮らし、彼がまともな食生活を送り、このフラナガンとのアルバムを始め、オリヴァー・ネルソンとの共演作などなど、新しい活動を大いに助けました。
ラッセルの絵画の才能をいち早く看破したのもこの奥さん、1965年の或る日、メアリーは突然メイシーズ百貨店のバーゲンセールで画材用具一式を買ってきてラッセルに「描きなさい!」と渡しました。それ以来、メアリーが急死するまでラッセルは音楽より油絵に熱を入れ、50点余の作品はどれも500ドル以上で売れたそうです。その内の一点がこれ、ラトガーズ大学のダン・モーガンスターン(最高のジャズ評論家)さんの研究所にもラッセルの作品が二点飾られているそうです。
ラッセルが絵を描き始めてから2年後、メアリーは58才の若さでラッセルを残して亡くなりました。体調が悪いと自覚したときには、末期のすい臓がんだった。膵炎を患う夫の面倒をさんざん看ながら、自分の病気には気づかなかった・・・
ラッセルは妻が亡くなってから二度と絵筆を取ることはなかった。ラッセルは瞬く間に元のアル中に戻り体調を崩し、彼女の死の翌年に亡くなりました。
「音楽を演る」ことの90%は「聴く」ということで、実際に演奏するのは10%に過ぎない。常に共演者の出す音に耳を傾けて、自分もそこに飛び込むんだ。
何でも怖がらずにやってみること。最悪でも、面目が丸つぶれになるくらいのもんだ。
実際、僕は何度もそんな目にあってるがね。
Pee Wee Russell