ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)

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Hank Jones (1918-2010)

’70年代以降、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズは、双方ともに謙虚で控えめな物腰の裏で、互いに最大のライバルとして、闘志の火花を激しく燃やしていた。

だから、この二人を(しばしばバリー・ハリスも含め)同じカテゴリーで議論されると、寺井尚之の癇癪がときどき爆発します。言うまでもなく、寺井はハンク・ジョーンズの凄さをいやというほど良く知っているからなのですが…

そんな中、今年初めて寺井が「楽しいジャズ講座:映像でたどるジャズの巨人たち」のテーマに選んだのがハンク・ジョーンズ・トリオがフランク・ウエスはじめ4人のテナー奏者と共演するという日本のコンサート映像なので、楽しみで仕方がありません。

 

<ハンク・ジョーンズ略歴>

 JATP 1950 multi signed with clipped coupon Hank Jones.jpg  ハンクさんは1918年(大正7年)ミシシッピ州生まれ、奇しくもハンクさんがCM出演していたパナソニックの前身である「松下電気器具製作所」のできた年です。幼少期が米国の工業化に伴う労働人口の南部から北東部への大移動時代と重なり、家族でミシガン州ポンティアック(フラナガンの出身地デトロイトとすぐ近くです。)に移り住みました。父が聖職と木材関係の仕事に就くジョーンズ家の子供は七人、姉二人はピアニスト、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズはジャズ史に輝く天才兄弟ですが、ヒース・ブラザーズ(パーシー、ジミー、アルバート)のように兄弟で共演することは稀でした。

 

 プロデビューは13歳で、フラナガンはまだピアノの鍵盤の上に上るのがやっとのよちよち歩き。すでにミシガン一やオハイオで、そこそこ名の知れた楽団に入り巡業に明け暮れた。成人すると、地元のメジャー・ミュージシャン、ラッキー・トンプソンの誘いを受け、故郷を出てNYに進出、当時のジャズのメッカ、52丁目の有名クラブ《オニキス》でホット・リップス・(tp)と共演、たちまちエラ・フィッツジェラルドやビリー・エクスタインといったスター達から引っ張りだこの超売れっ子となった。 

 だからデトロイト時代のフラナガン少年にとってハンクさんは、親友(エルヴィン)の兄さんであったけれど、ラジオやレコードを通じてしか知らない名手、神と崇めるチャーリー・パーカーと共演する天上人で、実際にフラナガンがハンクさんに会ったのはずっと後、NYに出てきてからのことだった。 

 1959年、ハンクさんは、全国ネットワークCBSのスタッフ・ミュージシャンとなった。以来17年間、エド・サリヴァン・ショウなど、TV界屈指のスタジオ・ミュージシャンとして活動しながら、空き時間はNYのレコーディング・スタジオに入り録音に勤しむ毎日が続く。参加アルバムには、ビリー・ホリディ晩年の不朽の名作<Lady In Satin>、ウエス・モンゴメリー<So Much Guitar>、ローランド・カークの<We Free Kings>といったものから、ジョニー・マティスなどのポップ・スター達のアルバムまで数百枚に上る。

 HCD-2023-l.jpg1968年には、弟サド・ジョーンズとメル・ルイスの双頭ビッグバンドの創設メンバーとして兄弟共演を果たしています。毎日色んな場所でいくつもの仕事を掛け持ちするハンクさんについたあだ名は「キャンセル魔」-昼間に街で会って、「ほんじゃ今夜のレコーディング、よろしく頼むわ。」「よっしゃ!」と挨拶しても、現場に現れるのはハンクさんに頼まれた別のピアニスト、というのが日常茶飯事。それでも、ハンクさんの仕事が減らなかったのは、その腕前に対する絶大な信頼であったから。

 ’70年代中盤にはブロードウェイ・レビュー《Ain’t Misbehavin》で音楽監督とピアノを担当、流れるようなシングルトーンが身上のハンクさんの演奏スタイルとは異なるファッツ・ウォーラー・スタイルを見事に再現し、ジャズピアノ通の度肝を抜いた。一方では、日本企画の《グレイト・ジャズ・トリオ》が大当たり、パナソニックのTVコマーシャル「ヤルモンダ!」でお茶の間にも親しまれ、新旧の名手と様々なフォーマットで、世界各地を公演、92才まで現役レジェンドの道をひた走った。

 ジャズ・ミュージシャンの旬は案外短く、かつての名手も、70を越えたライブに行くとがっかりすることも。でもハンクさんのピシっと伸びた背筋と、タッチ・コントロールの完璧さは、80才を超えても不変だった。

その秘密はどこにあったのだろう?

 

<端整なプレイの陰で>

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 昨年、寺井のドラマー、菅一平さんから、彼が尊敬するバップ・ドラマー、ケニー・ワシントン・インタビューの日本語訳を頼まれました。ドラマー向けのインターネット・ラジオ番組”Drummer’s Resource“のものだったのですが、そこでケニーが大変面白い話をしていた。彼を「練習魔」にした人が、ハンクさんだったというのです。

ケニーの話を要約すると…

 僕が20代そこそこの駆け出しの頃、光栄なことにハンクさんからギグに誘われた。ベースはジョージ・ムラーツ!ピアノ・トリオのコンサートだ。演奏会場がハンクさんの家から遠く、音出しが早いので、「家内の手料理をご馳走するし、君が寝る部屋もある。前日から自宅に泊まりなさい。翌朝一緒に出発しよう。」と言ってもらった。

泊めてもらった翌朝6:30amに目覚めると、スケール練習をするピアノの音が聞こえてきた。Cメジャー、Dメジャー…順番に、全音と4ビートで稽古している。あの名人がこんな基礎練習をしている!!若いドラマーはぶっ飛んだ。

 

 やがて、ハンクさんが朝食を食べに食堂にやってきた。

「おはようございます。ジョーンズさん」

「おはよう、ワシントンくん、昨日は良く寝られたかな?」

「あのう…ジョーンズさん、さっきの練習は毎日やっておられるのですか?」

彼は私を真顔でじ~っと見つめた。

「そうだよ。あれは絶対にやらなくてはいけない。」

そのとき、僕の中でディンドン、ディンドンと鐘が打ち鳴らされた。当時ハンク・ジョーンズ70代だったが、物凄い名手だった。彼のタッチが完璧なのは、この練習を続けているからだんだ!

僕も今から同じことを始めれば、彼の年齢になってもプレイできるに違いない!!それから、僕は毎日早朝練習をするようになった。(つづく)

 

「ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)」への2件のフィードバック

  1. ハンク ジョ―ンズさんの話し、感動しました。
    天才と言われる人は、人の見ていない所で努力しているのですねぇ

  2. 尚文さま、コメントありがとうございます。
    トミー・フラナガンは、表向き「練習しない」というフリをしていましたが、本当はそうじゃなかった。頭の中は24時間音楽で一杯だったように見えました。練習することを知られるのは「粋」じゃないと思っていたのかもしれません。
     後編で紹介する話は、寺井尚之が常々自分の生徒たちに言っていることなので、原文を読んで爆笑してしまいました。
     町中、スマホみながら、食べながら、の人が溢れる世の中、ピアノの道は絶滅の危機、なのかもです。

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