Bohemia Afterthought : カフェ・ボヘミアを探して
「私が初めてトミーと出会ったのは、“カフェ・ボヘミア”だったのよ。ちょうど’57頃よ、ええ、きっとOVERSEASを録音する前に、J.J.ジョンソンのクインテットでね。あの頃は、JJに言われたことを、ただただきっちりやっただけだってトミーは言ってたわ…
もちよ!トミーはすごくキュートだったわ!でも、その頃、私は別の人と結婚していたから、何もロマンティックなことは起こらなかったのだけれど…」
Live at Cafe Bohemia (’57 2/2録音)2種類のジャケット。
トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンは、寂しくて夜眠れないと電話をかけてくる。だって夜中にNYの友人達は皆寝ているけど、日本に電話すれば丁度午後だから。私が最も頻繁に長電話をする相手は、独り暮らしの母親に次いで、トミーが亡くなった2001年以降はダイアナだ。二人の共通点は昭和一ケタ生まれで、PCや携帯電話はなし、主に読書で暇をつぶしていること、そして二人とも亡き夫について語るのが好きなことだ。
ダイアナ&トミーが出会うずっと以前の写真:フラナガン家のスタインウエイの横に飾られている。
ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る:第一巻」で、内容の素晴らしさという点から、受講された方々に一番大きな衝撃を与えたアルバムは、トロンボーンの神様、J.J.ジョンソンの作品群だ。特に実況放送形式になっているドイツの希少盤『ライブ アット カフェ・ボヘミア』は、名盤『ダイアル・J.J.5』の僅か2日後のステージだから、『ダイアル・J.J.5』と同一曲も収録されていて、ライブとスタジオでの演奏ぶりを比較しながら、示唆に富む解説が評判になった。CDを聴きながら、この本を読んでみると、更に色んな音が聴こえてくる。
名盤!Dial J.J.5 (’57 1/31録音)
完璧なアンサンブル、ひねりがあって無駄のない構成を土台にした縦横無尽なアドリブ、自由でありながら、水も漏らさぬ整然としたJ.J.のサウンドは、このアルバム名になっている”カフェ・ボヘミア”というクラブで培われたのだろうか?
手元にあるNYの文芸総合週刊誌”The New Yorker”の完全データベースから、タウン情報”Goings On About Town”のページを繰ると、やはり、『ダイアル・JJ5』録音翌日の1957年2月1日(金)から、ライブ盤を録音した2日(土)を含め翌週の9日(土)まで、そして、OVERSEASを録音したスエーデンツアーの前の5月にもJ.J.ジョンソン5はボヘミアに出演している。
”ボヘミア”はJ.J.ジョンソンだけでなく、マイルス・デイヴィス(tp)やケニー・ド-ハム(tp)、キャノンボール(sa)とナット(tp)のアダレイ兄弟たちの本拠地としても有名だ。
“キャノンボール”アダレイ(as)のデビューにまつわる神話もある。
ジュリアン”キャノンボール”アダレイ(as)
’55年、休暇を利用してフロリダからやって来た太めの高校教師がアルト・サックスを携え、”カフェ・ボヘミア”にやって来て一曲吹こうという話になった。その夜のバンドリーダーは、OPことあのオスカー・ペティフォード(b)!人のよさそうな青年に大都会の洗礼を与えてやろうと、I’ll Remember Aprilを、弾丸の様なテンポでを吹かせたのだけど、この田舎もんの兄ちゃん、いくら速いテンポで攻め立てても、いとも気持ちよさそうに、朗々とスイングし、ペティフォードを返り討ちにしたというのです。間もなく、その青年は教師を辞め、”キャノンボール(火の玉)”アダレイとして、名を馳せたという…
“カフェ・ボヘミア”ってどんなクラブだったんだろう…
「ボヘミア」というのは’50年代のビートニク世代のキーワード、既成概念を打ち破り、自由で束縛されないアーティスト達の心の故郷だ。そんなトレンディな名前のクラブ、”カフェ・ボヘミア”の住所はNY、ウエスト・ヴィレッジのバロウ・ストリート15番地となっている。
ここは19世紀の終盤に、まず運送屋の馬車を引く4階建ての厩舎が出来た。禁酒法時代になると、辺鄙な地の利を生かし、近所にスピーク・イージーと言われる、もぐり酒場が出来、密かににぎわった。その後消防署などを経て、’55年にイタリア系のマッチョな連中が”ボヘミア”を開店、オスカー・ペティフォードのトリオがハウス・リズムセクションとなり、JJは勿論のこと、マイルス・デイヴィスや、キャノンボール&ナットのアダレイ兄弟、ドナルド・バード&ジジ・グライスの”ジャズ・ラブ”などNYの最先端のグループで活況を呈し’58年ごろまで営業した比較的短命なクラブだった。
また、ここ数ヶ月間のジャズ講座で寺井が絶賛し、一番人気の博するラッキー・トンプソン(ts,ss)のホームグラウンドでもあったことも忘れてはいけない。
現在も建物はそのままで、現在はバロウ・ストリート・エール・ハウスというアイリッシュな雰囲気の居酒屋になっている。
“ボヘミア”の前で休憩するマイルス・デイヴィス(左)現在の姿(右)馬のマークは19世紀の厩舎の名残。
一体”カフェ・ボヘミア”ってどんな雰囲気だったんだろう…
Jazz Clubに生息する私は、夜中にそんな事を考え出すと眠れず、ダイアナに電話をする。だって夜中の3時は夏時間のNYなら午後2時だから全然大丈夫だもん。
「タマエ、いきなりカフェ・ボヘミアなんてどうしたの? へーっ、ウェブログ? いやだ…携帯電話もないあんたみたいな時代遅れの頑固者(ラダイト)までブログをやってるの?!でも、トミーの周辺の歴史を書くっていうのは、とってもいいことだわ。
“ボヘミア“はね、綺麗だの、豪華だの、と言うには程遠いけど、とにかく良い音楽を聴かせるクラブだったの。当時のウエスト・ヴィレッジは、おしゃれでも何でもない荒涼とした街だったわ。
席数? よく覚えてないわ…ヴィレッジ・ヴァンガードよりは広かったんじゃない?もっとテーブルも大きくてゆったりした感じだった。チャージ?あはは…そんなもの知らないわよ…だって払ったことないもん。NY中どこ探しても店の料金を知ってるミュージシャンなんていないわよ。(ダイアナはかつてクロード・ソーンヒルOrch.などで活躍した歌手だった。)
…料理はなくてドリンクだけの店だった、お客は皆ジャズを聴くためだけに集まってたから、客席はすごく静かだったわ。
お客の人種?そんなの何でもありよ。純粋なジャズクラブに、人種の区別なんてものはなかったの!うちのあの納戸にそういうことを全部書いてある本があるんだけどねえ…探すのが大変なのはあなたも知ってるでしょ。掃除をして出てきたら必ず知らせるから、私に任せなさい!(ああ…ダイアナが納戸の掃除なんてするわけない…絶対無理やわ。)
そうだっ、タマエ、いいアイデアがあるわ! ディックは”ボヘミア”に出ていたから、私よりずっと良く知ってるはずよ。ディックに電話なさい! え? 何言ってるの、彼はピンピンしてるわ!ヒサユキとあなたのことを大好きだって言っていたから忘れっこないわよ。おとといも道でばったり会ったのよ。電話番号知ってるでしょ。じゃあね!ヒサユキに私からのキッスを忘れないで!!」
ディック・カッツ(p)は、寺井尚之と不思議な縁のあるピアニストだ。寺井はJ&カイのアルバムを通じて、学生時代から特別な興味を抱いていた。それは、彼が腕のあるピアニストだっただけでなく、トミー・フラナガンの得意フレーズをそのまま、自分のソロに取り込んでいたからだ。
2006年NY、YAS竹田(b)の母校でもあるニュー・スクールで。
やがて、私たちがNYを訪れるようになり、フラナガン夫妻と街を歩いていると、まるで天から私達のことを見ていて、ふわっとマンハッタンに舞い降りてきたみたいに、不意に出会う不思議な人なのだ。彼のアイドルもテディ・ウイルソン(p)やアート・テイタム(p)、若き日の共演者はJ.J.ジョンソン(tb)、タイリー・グレン(tb)、オスカー・ペティフォード(b)、ベニー・カーター(as,tp,etc…)、ラッキー・トンプソン(ts,ss)であったこと、うお座生まれであることなど、トミーと共通点が多いから、大都会を歩く道すじも自ずと似ているのだろうか…。1924年生れ、スーツ以外の姿が想像できない上品な老紳士で、東海岸の先生然としていて、蝶ネクタイが似合う。声もしわがれているのだけど、一緒に話をしてみると、20歳の青年のように若々しい。聡明でユーモアがあって洞察力が深い。80年以上生きているのに、浮世の垢が全くついていない感じがする。
このおじいさんは、本当は王子様で、悪い魔女に老人の姿に変えられたのじゃないかしら、と思えるほど爽やかな人だ。
今夜はもう遅い。よし!明日の晩はカッツさんに電話してみよう!(つづく)
カッツさんと連絡はとれましたか?
鷲見和広さん
エコーズしばし休みでさびしいです!
カッツさんとは、ばっちり1時間ほどお話できました。今週末にインタビューをUPしますので、お暇なときにどうぞ!
乞うご期待!