ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (4)
<晩年>
ヤングは晩年の大部分をノーマン・グランツのJATP一座で過ごした。彼はアル中となり、演奏はぼうっとした不確かなものになった。変わらずスーツとポークパイハット姿であったが、演奏中は座っていることが多くなった。
1957年にTV番組『ザ・サウンド・オブ・ジャズ』に出演した時の彼は「心ここにあらず」という風情だ。スタジオではビッグバンド・ナンバー2曲のパート譜を読む事を拒んだ。(代役は、かつてヤングの父に師事したベン・ウエブスターだった。)ビリー・ホリデイのブルース、<ファイン&メロウ>で1コーラス吹いているが、音色は完璧だがソロには生気がない。(訳註;番組制作に関わったナット・ヘントフによれば、この日のヤングの体調は最悪でスタジオで立っている事すら出来ない状態だったという。)
ソロに耳を傾けるビリー・ホリデイの愛に満ちた微笑みを見ると、彼女に聴こえているのは、今そこに座るレスターのソロではなく、彼女の脳裏に刻まれた昔の彼のソロではなかったのかという気がする。
テナー奏者バディ・テイトは番組の翌年、ニューポートジャズフェスティバルに出演したヤングを車で送って帰った。
「私がレスターと初めて会ったのはテキサス州シャーマンで、当時の彼はまだアルトを吹いていた。しばらくして、彼がフレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍した時、ベイシー楽団に後釜として入ったのが私だ。その当時レスターは酒も煙草もやらなかった。とても粋でナイーブな人だったな。1939―1940の第2期ベイシー楽団では同僚だった。演奏中に小さなベルを持っていてね、バンドの誰かがドジを踏むとそれをチンと鳴らすんだよ。
1958年のニューポートフェスティバルの帰り道、NY迄乗せて帰った。彼はとても落ち込んでいたよ。ギャラが少なくてがっかりしていたし「自分の演奏も良くなかった」ってね。「いいや、あんたのプレイはすごく良かったよ!例えば…」と私が言うと、彼は答えた。
「レイディ・テイト、もしも本当に僕が良かったらさ、僕を真似している他のテナー連中が、一体なぜ僕より儲けてるんだい?」
アレンジャ―、ギル・エヴァンスは40年代に西海岸でヤングと知り合い、彼の晩年はNYでも親交があった。
「レスター・ヤングの様に孤独な人は、往々にして自分に目隠しをしてしまうものだ。善いにつけ悪いにつけ、全ての根源は過去にあるとして、昔のことをずうっと引きずっているんだ。亡くなった年、彼がアルヴィン・ホテルに引越した頃でもまだ、「十代に譜面を読む勉強をしなかったので、父に嫌われた」と言うような話を持ち出してくる。だけど本当は、他のものに対する現在の怒りをはっきり表現できないので、昔の出来事とすり替えていたのではないだろうか? 何に怒っているのかをはっきり言えずに、時々彼は泣いていた。
ずっと昔、たまたまカリフォルニアに行った折に、ジミー・ロウルズ(p)と連れ立ってプレズに会いに行ったことがある。彼はお父さんの所有する3階建ての建物に住んでいてね、その家を訪ねたら、丁度、親子喧嘩の真っ最中だった。プレズはすすり泣いていた。これから家を出てウエスト・ロサンジェルスの母親のバンガローに引っ越すから手伝ってくれないかと言うんだ。僕達は借り物のクーペに乗ってきていたので、言われるとおり、僕らで荷造りから引越しまで何もかもやったよ。レスターのあの涙はずっと忘れられない。
50年代にNYの52丁目近くのレストランで、彼と一緒に食事をしていたら、トルコ帽に聖衣を着た妙な男が入ってきてキリストについて説教を始め、彼を「預言者(PROPHET)」と呼んだんだ。するとプレズはその男がイエスと「恩恵(PROFIT)」について何か言ったのだと勘違いし、プイと店を飛び出してしまった。僕が追いついた時彼は泣いていた。なぜ彼がイエスにそんな強い感情を持つようになったのか判らない。子供の頃教会に通っていたからか、或いは彼は不平等や不正に強く悩んでいたからか… 例えどういう種類の不平等や不正にしても、彼にとっては絶対に耐えがたいものだった。
彼は晩年、アルヴィン・ホテル(訳注:NY、ブロードウェイの52丁目にあった。)に大きな部屋を借りていた。部屋を訪ねると、食べ物の皿が所狭しと置かれていた。友達の差し入ればかりだったが、彼はもう食べる事が出来なくて、ただワインを飲むだけだった。彼の飲酒が手におえなくなった理由の一つに歯の問題があった。歯がボロボロで常に歯痛に悩まされていたんだ。
それでも彼は、ヘアスタイルとかそういう事にはすごくこだわっていた。長く伸ばしていたんだけど、とうとう私の妻(散髪がうまいんだ!)が彼の髪をカットする事になった。すると妻がハサミを一度入れるたびに、鏡を見せろって言うんだ。まだ髪の毛も床に落ちていないのね。すごいことだよ!大なり小なり意識的に自分を死に追いやっている人間が、なお自分のヘアスタイルにこだわるというのは。」
テナー奏者ズート・シムズは、40年代にヤングを崇拝し徹底的に聴きこんだ。彼もまたレスターの無邪気なナルシズムの目撃者だ。
「1957年にバードランド・オールスターズでツアーした時、レスターと相部屋だった。ある日、彼が着替えで裸同然にになったんだけど、真っ赤なショーツでね。力こぶを作ってポーズをとってゆっくりとターンしながら言うんだ。
『おじんにしては悪くないなあ…』って。
ほんとにその通り、いい体格でね。あの人は心も綺麗だったなあ…。それにとても知的な人だったよ。」
ヤングはパリ公演から帰国した翌日、アルヴィン・ホテルで亡くなった。死の直前、フランスでフランソワ・ポスティフが行ったロング・インタヴューは沈鬱なものだ。多分彼は死を予感し、そこに自分の墓碑銘を残したのかもしれない。
『社会は全ての黒人がアンクル・トムやアンクル・レミュス、アンクル・サムというようなものに成るように望んでいる。私にはそんなことは出来ない。ずっと同じことの繰り返しだ。
生きる為には戦わなければならない。―死が戦いから解放してくれる日まで。それが勝利の時だ。』
了
トミー・フラナガンは、レスター・ヤングとの録音はありませんが、ヤングの晩年にレギュラーで共演していました。レスターが大好きだったので、友達のサックス奏者がアルヴィン・ホテルに訪ねて行くと言うと、必ずくっついて行ったそうです。
レスター・ヤングの不思議な言葉使いが、浮揚感あるサウンドにつながっているというのも、ジャズ講座に来ていらっしゃる皆さんには、わかりやすかったのではないでしょうか?
音楽だけに限らないと思いますが、巨匠の最盛期を知る人ほど、晩年の衰えを見るのは辛い。人間は皆そうなるもんなんだ。でもジョン・ルイスやジミー・ロウルズ、ズートといった人たちは、(多分知っているんだろうけど)一言も惨めったらしい姿については話していません。
トミー・フラナガンという人は、こういう行儀についてとてもうるさい人だったので、(フラナガンの教えてくれたルールを、私はインディアンの掟と呼んでる。)インタビューされる人たちの「見識」についても色々興味深く読みました。
初めて掲載してしまったホイットニー・バリエットのポートレートはどうでしたか?バリエットは巧者そろいのNew Yorkerのコラムニストのうちでも「英語の達人」と呼ばれ、原文はもっとリズムと格調があります。私のような若輩者では、どうにも日本語にしきれなくてゴメンネ。
原書もペーパーバックで入手可能、辞書をひくのがイヤでなければ楽しめます。
CU
珠重さま、昨日も返信、いつも本当にありがとうございます!
トミー・フラナガン大師匠はレスター・ヤングさんと共演してらっしゃたんですね。
「Alone Too Long」のアルバムの中でビリー・ホリデイ・メドレーを演なさってますが、これは、トミー・フラナガン大師匠、レスター・ヤングさん、ビリー・ホリデイさんがお互い共演した事がつながっているのでしょうか?
お話の中で多くの方が「レスター・ヤングさんはいろんな事で心に傷が出来てしまって、ずっと心を打ち明けることがなかった」と話してたけど、それでもレスター・ヤングさんは音楽や音でたくさんの人に感動を与えてらっしゃって、すごいなあと感動しました。
「Fine And Mellow」の中で演奏してらっしゃるのを聴くと、ステージに立っているのも辛い位なのに、あんなに迫力のある音を奏でてらっしゃって感激しました。
私は早くジャズの事もわかりたくて、きれいな音も早く出せるようになりたくて、でも私は理解するのもすごく遅くて、理解するのも弾けるようになるのも、他の人より何倍も時間がかかることは自分でよくわかっています。
でも師匠のすばらしい音楽や演奏、音の響きにいつもとても感動して、師匠のようなきれいな音を少しでも出せるように、弾けるようになりたいです。
これからも一生懸命練習も勉強もしますので、師匠、よろしくお願いします。
珠重さん、レスター・ヤングさんの事たくさん教えて下さって本当にありがとうございました!
少しずついろんな事が判るのがとても嬉しいです!
これからもいろんなジャズの人の事や曲の事などたくさん教えて下さい。
よろしくお願いします。
いつも本当にありがとうございます!
みゆきさま
お休みにコメントありがとうございました。
ビリー・ホリディはトミー・フラナガン少年時代からのアイドルでした。日本語のアイドルです。もう綺麗で可愛くて色っぽくて、それに歌もうまくて、ハートがドキンドキンとしたそうです。
音楽について知るには、どんな人でも時間がかかります。(落語や歌舞伎も) 少しずつ楽しくなれば最高!
ピアノもがんばってくださいね!