「ジャズの専門店ミムラ」の三村晃夫さんが7月29日未明に急逝されました。いつも笑顔で元気一杯、永遠のお兄さん、52歳なんて速過ぎる。同日の午前中、携帯にSMSが入ってきた時、てっきり悪い冗談だと思い込み、お知らせくださった、ジョン・コルトレーンの権威、藤岡靖洋氏に怒りの電話をしてしまったほどです。
仕事の後、応援しているミュージシャンのライブの帰り道に心不全に襲われたとのことです。あの日のTwitterで、三村さんは、「目がチカチカする」「やばい!」と何度か投稿されていました。ひょっとしたら無意識にSOSを発信されていたのでしょうか?「はよ家に帰って休みなはれ!」と、大阪のおばちゃんらしく返信すればよかった。約束を守るミムラさんだから、結果は一緒かも知れないけど、悔やまれてなりません。
「ジャズ講座」チャーリー・パーカー特集で。
三村さんと私たちOverSeasのお付き合いは「ワルツ堂」時代の1990年代初めからです。「エスト1のワルツ堂のジャズ担当マネジャーは凄いやり手や!予約分のレコードが顧客別に分けられて山積みになってるで。」と評判で、寺井尚之が父の代から懇意にしていた「ワルツ堂」堂島店の名物マネージャー、大井さんと稲村さんを通じてお知り合いになったのがきっかけだったと覚えています。
デビュー盤『Anatommy』から寺井尚之のアルバムでお世話になり、やがて’97年に「寺井尚之のジャズ講座」が始まると、各回のテーマに沿ったアルバムをOverSeasに持ち込んで、ワルツ堂出張所として毎回即売するのがお決まりの行事になっていました。
講座で気に入ったアルバムが一般市場で入手困難だったりすると、ジャンケンで取り合ったり大変!おかげで講座の後は夜店みたいで楽しい雰囲気でした。エスト1のお店に行くと、三村さんは常連さんに取り囲まれていて、挨拶ももできないほどと寺井尚之の生徒達が言い、「カリスマ・ミムラ」というあだ名をつけました。
そのころは、まだジャズ専門のレコード屋さんがキタにもミナミにも沢山あり、各店舗に名物のオヤジさんや、名物マネージャーが必ずいらっしゃったものです。その中で、素人のお客さんと同じ目線で、イチゲンさんでも分け隔てなく、気さくに判りやすく接客してくださる「優しいお兄さん」的キャラクターは、ある意味、濃い目のジャズの世界で、全く新しいタイプの実力者でした。
とにかく几帳面で整理整頓の出来る人、ジャズ講座でトミー・フラナガンのディスコグラフィーを最初に作ってくださったのが三村さんです。本番の講座でも、レコードやCDを入念に並べてから、初めて見るお客様の名前を予め覚えたり、皆が寺井尚之の講義を楽しんでいる間に、セールスの準備をしっかりされていて、凄いプロ意識と敬服していました。三村さんの接客術に色々勉強させてもらったことを今も感謝しています。うちの常連様は三村さんのところで買い物をし、三村さんのお客様もOverSeasに寺井尚之を聴きに来て下さるということが続きました。TVでしか知らなかった桂南光師匠もその内のお一人です。
2002年にワルツ堂が閉店し、「ジャズの専門店ミムラ」として独立される際も、それまでに築き上げた、お金で買えない人間関係が成功の基だったのではないでしょうか?ミムラ開店のニュースがTVや新聞に大きく載ったのも、関西メディアの方々に「ミムラさんを応援したろう!」という気運が高かったからだと思います。やがて、熊本放送のラジオ・パーソナリティや雑誌のコラムなど、三村さん自身がメディアの世界に移行されていっているように見受けました。肩肘張らず、それでいて几帳面な文章も三村さんのお人柄がよく出ていました。時々「珠重さんのブログからネタ拾わせてもらいましたわ~」なんておしゃっていたっけ。
その一方、ミムラさんのもう一つの功績が、若い人たち、特に学生さんにジャズの扉を開けてくれたこと。若手ミュージシャンを積極的に応援し、これからジャズを目指す人たちにCDを売るだけでなく、生演奏を聴いて勉強しなさいと勧めてくれた。また彼らの演奏に足を運ぶことにで励ましを与えていたのは、本当に素晴らしいことです。同時に、しっかり未来の顧客を開拓するプロフェッショナルの姿勢であったとも思っています。
ご家族を一番大切にされていたから、音楽好きな若者を見ると、ご自分の子供さんと同じように温かく接してあげることが出来たんですね。独立された時、真新しいお店でこうおっしゃったのを覚えています。
「僕は家族が一番大切やから、なんぼジャズが好きやからって、嫁さんに迷惑かけて、赤字出してまで続ける気はないねん。儲からんかったらトラックの運転でも何でもする気でいてるから。」
お酒も煙草も嗜まず、節制されていた三村さん、赤穂浪士、三村包常(かねつね)の子孫、ややこしい人間関係もスルリとうまくまとめるコミュニュケーションの達人、優しき三村さんは、たったの52歳で旅立ってしまった。奥様やお父様、子供さんたちは、どれほどご無念でしょう。思うだけで胸が詰まります。同時に、ジャズ界にとっては、かけがえのない大きなものが失なわれてしまった。
また日曜日のお葬式に参列し、長年ご無沙汰していた恩人にもご挨拶が出来ました。それも三村さんの心遣いかと感じています。
帰り道京阪電車のホームで、涙でボロボロになった顔を直していると、隣の女性に「三村さんをご存知だったんですか?」と声をかけられました。息子さんがトランペットを勉強していて、ミムラに通っていたのだそうです。「三村さんには、学校では教わらない色んなジャズの知識を授かって、ガンバレ!と背中を押してもらってました。本当に感謝しています。良いCDやライブを聴くためにバイトしているから、どうしても今日は抜けられず、母親の私が替わりにお礼とお別れを言いに来ました。」と・・・そのとき「僕CD売ってただけとちゃうのよね!」と聞きなれた声が私に囁きかけました。
三村さん、本当に色々お世話になりました。いずれ再びそちらでお目にかかるまで、私も寺井尚之も、出来る限りがんばりますね!
寺井尚之と共に、心よりご冥福をお祈りいたします。
山梨県の山中湖にある森の中の絵本館の石井です。大阪に行くたびに三村さんのお店に必ず寄らせていただいてました。6月30日にお会いしたばかりだったのに。信じられません。これからも大阪に行った時には足が勝手に向きそうです。くやしいです。これからもいい音楽を聞き続けていきたいと思います。
CDは三村さんからしかここ数年は買ったことがありませんでした。どうすればいいのでしょう・・。
ご葬儀でも、周りから「もうCD買う場所がない。」「もうCD買わないかも・・・」という声が聞こえてきました。石井様ご夫妻は、ヨコハマ→山梨から長年CDを買ってくださっていて、三村さんのかけがえのない顧客だったと思います。それでもまた大阪に来てくださいね!!宜しくお願いいたします。
>SMSが入ってきた時、てっきり悪い冗談だと思い込み、送信者に怒りの電話をしたほどです
それは、私です。
スンマセン、ぼくも奥さんから朝早く電話をもらった時には信じられませんでした。働き者の奥さんは実は、着付けの先生で、きものも扱っておられ、ぼくもそのお手伝いをしていたので、ご夫婦共々お付き合いをしていました。
澤野さんいわく「大阪でジャズの新譜を売るお店が消えてしもた、これはたいへんなこっちゃ」
ホンマニ、羅針盤を失った船が太平洋の真ん中に放り出されたみたいです。
お店の事後処理もいくばくかお手伝いしようと思っています。。。合掌
ひや~、これは藤岡先生、失礼しました。直前にTwitterでデマ・メッセージ受信した直後で藤岡先生のイタズラというより、誰かが名前を語ってるのかと思った次第でございます。
本当にエラいことです。夢なら醒めてほしいです。
五大陸を網羅する先生のネットワークで、ぜひお力添えを、私からもお願いいたします。
お忙しい中ありがとうございました。
ミムラさんの訃報、未だに信じられない気持ちです。
帰阪する際には、何度も立ち寄らせていただきました。
マニアックな品揃え、懇切丁寧で気さくな対応、
本当に得がたい人でした。
残念でなりません。
亡くなる前日の27日のブログを見ると、
視野狭窄のような記載がありますね。
おそらく、これは後大脳動脈のTIA(一過性脳虚血発作)
だったのでしょう。
そして、当日ライブをやった歌手の上杉さんのブログには、
打ち上げの席で突然胸痛を訴え、脂汗をかき出した、との
記述がありました。
血栓が出来やすい状況があって、前日には脳に飛び、
そして当日心筋虚血発作を起したのでしょうね。
前日のブログの記載を読んでいれば、
「ミムラさん、やばいよ!仕事休んで病院行かないとだめだよ!」
と警告してあげたのに、と悔やまれてなりません。
まあでも、真面目で律儀なミムラさんのことだから、
きっと「いや、大丈夫」と言って、仕事もこなしてライブにも
行かれたことでしょう。
これも、運命だったのでしょうか?
心より、ご冥福を祈り申し上げます。
ご葬儀で弔電が読まれていました。
私たちもそうですが、自営業は「休めない」のが前提、他人事と思えません。
医師会のメーリングリストでの先生のニュースでうちのお客様からも電話があり、同様のことおっしゃっていました。
25-25先生もどうぞご自愛くださいね。