先日、パノニカ男爵夫人のことを書きました。多くのミュージシャンに援助の手をさしのべ、沢山の曲を献上されたパトロン、彼女は英国人。ミュージシャンは、パトロン自慢が好き!モナコ国王レーニエ大公やタイのプミポン国王が大のジャズ・ファンだとか、ヨーロッパの貴族がフィリー・ジョー・ジョーンズに多額の遺産を残したとか、いろんな人から、いろんな話を聞いた事があります。それじゃ、ジャズの母国アメリカ国民でパノニカに匹敵するようなパトロンはいなかったのでしょうか?
トミー・フラナガン初期のレコーディング、”Oscar Pettiford in Hi-Fi”は私の大のお気に入り、アルバムのオープニングはオスカー・ペティフォード作、 “The Pendulum at Falcon’s Lair”(はやぶさ邸の振り子)という一風変わったタイトルが付いている。丁度、時計の振り子に併せたようなテンポのバップ・チューンで、ハープが効果的に使われています。(足跡講座に出席されている方なら、この題名について色々論議があったのを覚えていらっしゃるかも)、“Falcon’s Lair”の女主人、ドリス・デュークは、アメリカ人として最も著名なジャズのパトロンだった。
”Falcon’s Lair”は「刑事コロンボ」の担当区域、ビヴァリー・ヒルズ有数の大邸宅で、本館と召使の館、広大な車庫や馬屋からなるV字型のカリフォルニア式建築。1925年、サイレント映画の伝説的スター、ルドルフ・ヴァレンティノが何億というお金で購入し、”Falcon’s Lair”と名付けた。アラブの王子様が当たり役だったヴァレンティノが収集したイスラム美術品など、贅を尽くした調度品で埋め尽くされた豪邸でしたが、この屋敷に住んで僅か1年後にヴァレンチノは亡くなった。邸にはヴァレンチノの幽霊が出ると言われ、主が転々とし、1950年代始め、やはりサイレント時代の伝説的女優、後年「サンセット大通り」で再ブレイクしたグロリア・スワンソンから邸を買ったのがドリス・デューク。でも”Falcon’s Lair”は、ドリスが全米各地に所有する5つの大邸宅のうちの一軒に過ぎなかった。季節に応じて住み分けたそうで、ハワイの豪邸”シャングリ・ラ”は今も名だたる観光名所。
ドリスは、タバコ産業で巨万の富を築いた億万長者の一人娘。全米屈指の名門校、デューク大学は、彼女の祖父と父が財政支援して設立された。ところが父のジェームズ・デュークは、ドリスがたった12才の時に病死。なんでも、ドリスの母親が、窓を開け放った寝室に、風邪をこじらせた夫を監禁したため肺炎が治らなかったと噂されるキナ臭い死でした。
おまけに、父の遺言状は、「遺産の大部分を(妻でなく)娘に遺す」という内容であったために、実の母娘ながら、二人の間には大きな確執があったと言われている。以来、ドリスは「全米一のリッチな女の子」として、マスコミに追っかけまわされることになります。
そのためなのか、母親はドリスに高等教育を施さず、ヨーロッパの社交界に無理やりデビューさせるという教育法をとりました。ヨーロッパの上流社会では成金娘と陰口をたたかれ、故国ではセレブとしてスポイルされ・・・ドリスの少女時代は、さぞかし窮屈なものだったでしょう。
成人後、7000万ドルという途方も無い財産を手にしたドリスが一番欲しかったのは、お金で買えるものではなく、”自由”と”生き甲斐”だったのかも。大戦中は週給1ドルで水兵の食事係、戦後はヨーロッパ各地の状況を米国に発信する特派員活動、でも、どれも長続きはしなかった。歴史に残るのは、ハワイ暮らしのおかげで、史上初の女性サーファーになったこと。パノニカが、レジスタンスで活動し、英国初の女性A級パイロットになったのと似ていますが、多くの親戚がガス室に送られ、自分や家族もアウシュビッツに連行されるかも知れないという修羅場をくぐってきたパノニカとは、必然性が少し違うのかもしれません。
ドリス・デュークは2度結婚している。最初は米国人の政治家、2度めの夫はドミニカの外交官だった。どちらも、世界一周や、B29爆撃機の購入などなど、ふたりとも彼女の財産を相当派手に使った。
それ以来結婚せず、ハリウッドスターやスポーツ選手と浮名を流す。セレブな彼女がジャズに惚れ込んだのは、ジョー・カストロという西海岸で活動するピアニストと恋をしたのがきっかけのようです。
億万長者のお相手、ジョー・カストロは1958年から西海岸で活動したバップ・ピアニスト、テディ・エドワーズ(ts)、ルロイ・ヴィネガー(b)、ビリー・ヒギンス(ds)とカルテットでの活動が有名です。二人は”Falcon’s Lair “で同棲し、カストロはお城のような家からギグに出かけた。何十もの部屋がある大邸宅には、カストロを訪ねてルイ・アームストロング始め多くのジャズ・ミュージシャンが入れ替わり立ち代り逗留していました。
マイルズ・デイヴィスのバンドが西海岸に演奏旅行すると、メンバーのキャノンボール・アダレイはホテルを取らず”Falcon’s Lair “を定宿にしていた。屋敷に遊びに行ったジミー・ヒースは「あんな豪邸を訪問したのは生まれて初めて」とびっくり仰天!
はやぶさ邸”には、各部屋に豪華な録音機器が設置され、ミュージシャン達のセッションが録音できるようになっていた。オスカー・ペティフォードは言うまでもなく、ジェリー・マリガン(bs)、スタン・ゲッツ(ts),ラッキー・トンプソン(ts,ss)などのセッションを含む150本のオープン・リールが現存しているそうで、そのうち、ズート・シムスがアルト・サックスを吹いているプライベート・セッションがリリースされています。ジャケット写真は、屋敷内のセッションの模様で、しどけないTシャツ姿で。
1960年、カストロとドリスは、共通の友人、デューク・エリントンともに”Clover”というレコード会社と音楽出版の子会社を設立しましたが、結局はカストロのレコードを一枚リリースしただけで頓挫、二人の愛人関係も1966年に終わりました。その後は、最新の録音機材の数々もガレージに山積みで使われることはなかった。
二人の長い愛人関係は、ジャズが結ぶ「大人の関係」とは行かなかったようで、カストロに「妻」呼ばわりされるのをやめてもらうため、ドリスはわざわざ裁判を起こさなくてはならなかった。まあ、色々あったけれど、ドリスのジャズに対する支援は続き、現在もドリス・デューク基金から、ニューポート・ジャズ・フェスティバルや、ミュージシャンへの活動支援として、高額のお金が拠出されているようです。
ドリスは、エイズ研究や自然保護、恵まれない子供達の支援など、ありとあらゆる慈善活動に貢献した。”Falcon’s Lair”が数ある邸宅の一つに過ぎなかったのと同じように、ジャズへの愛も彼女の人生に彩りを与えるOne of Those Thingsだったのかもしれない。
パノニカの名前を冠したジャズ作品は多いけれど、ドリスにまつわる作品は、彼女の名前でなく、屋敷だったというのは、何故なんだろう? この屋敷でドリス・デュークは亡くなった。享年80才、沢山豪邸があっても、寝たきりで動くことが出来ず、看取ったのは執事だった。
”Falcon’s Lair”は、道路建設用地として大部分が取り壊され、現在はエントランスの一部が残るのみ。
人がうらやむ贅沢も、 殆ど私は手に入れた。
車や家や別荘も、
熱い暖炉のその脇の、熊の毛皮の敷物も…
なのに何かが欠けている・・・
(ビリー・ストレイホーン:Something to Live For)