「我々の生活は非常に厳しい。バーやクラブを仕事場としているから、常にアルコールやドラッグの危険にさらされる。アーティストとして音楽や人間の本質の探求に熱中すると、一時的に意識を変えてくれる酒やドラッグに溺れて、思わぬ落とし穴にはまる。」ソニー・ロリンズ
先週のジャズ講座:「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は歴代のレクチャーの内でもベスト10に入るものでした。フラナガンが激烈な敬愛の情をプレイの中に刻印した『Coleman Hawkins All Stars (Swingville)』に続いて鑑賞したケニー・ド-ハムの名盤、『The Kenny Dorham Memorial Album (Xanadu 125)』はレギュラー・バンド中、ピアノのみスティーブ・キューンに変わってフラナガンが補強に起用されたセッション。作編曲家としても優れた才能を持つKDの「ひねりの効いた構成」を「ごく自然に心地良く」聴かせるレギュラー・バンドのならでは息!例えば”Stage West”はブルースですが、テーマとインタールードを併せ6つのブルース・パターンが万華鏡のように有機的に広がる構成。山あり谷ありの枠組みに縛らるどころか、各人のプレイはその枠があるから、一層自由闊達に流れを変える!これぞハードバップの醍醐味!構成表を見れるから、プレイの面白さのツボをしっかり実感できて楽しかった!
このクインテットのベーシストが若干20才のブッチ・ウォーレン、ドラムのアーノルド”バディ”エンロウと一糸乱れぬ歩調、ピチカートから弓へ、弓からピチカートへ、間髪入れず移行するテクニックとビートが凄かった!講座で寺井尚之はつぶやいた。「このまま行ったらポール・チェンバースを越えてたんちゃうか…」
ところが、この4年後、ウォーレンの柔軟なビートはNYジャズ・シーンから完全に消滅していた。
<早熟のベーシスト>
Edward “Butch” Warren (1939-2013)
エドワード”ブッチ”ウォーレンはワシントンD.C生まれ。母親はタイピスト、父親は電気技師で比較的裕福な黒人家庭の一人っ子だった。父は仕事の傍ら、夜はピアニストとして活動し、自宅にミュージシャン達を快く招いた。幼いブッチはそんな家庭でミュージシャン仲間のセッションを聴きながら育った。家に出入りしていたのはジミー・スミス(org)、スタッフ・スミス(vln)、少年時代のビリー・ハート(ds)、定期的に楽旅でやって来る一流バンドの面々も居た。ある時、デューク・エリントン楽団のビリー・テイラーというベーシストが事情があって自分の楽器をウォーレン家に置いて行っちゃった。その大きな楽器の松脂の香りや魅力的な曲線が大好きになったブッチはナショナル・シンフォニーのコントラバス奏者についてクラシックのレッスンを始めます。最初のアイドルはもう一人のエリントニアン、ジミー・ブラントンで弓とピチカートの大きな美しい音の虜になりました。彼の通う学校は荒れていて喧嘩ばかり、ゆっくり勉強なんかしていられない。音楽の才能に恵まれた子どもにとって「ジャズはサバイバル・ツールだった。」と後年彼は語っている。
14才で父親のバンドでプロ・デビューして以来、未成年ながら地元ワシントンDCのジャズ・シーンで活躍します。
<ケニー・ド-ハムに誘われて>
ブッチ・ウォーレンが19才になったとき、早くもチャンスが巡ってきました。メリーランド州に近いワシントンD.C.の北西部で現在も盛業中のジャズ・クラブ《Bohemian Caverns》にケニー・ド-ハムのバンドが来演した時のことです。ベーシストが楽器を置いたまま蒸発し、本番の時刻になっても姿を見せません。その場に居たブッチが急遽代役を買って出ることになりました。演奏が終わってからKDはブッチにこう言った。
「自分でやって行けると思うならNYに出てこいよ。自信がなければ来ない方がいい。」
まあ、NYでやっていくのは楽じゃないぞ、自己責任だぞ、ということをKDは言いたかったのかもしれません。
それからしばらくして、正式にKDからNYで共演したいという手紙が届き、ブッチはすぐさまNYへ。ブルックリンの《Turbo Village》というクラブに6ヶ月間出演しました。『The Kenny Dorham Memorial Album 』は丁度この時期に録音されたものですから、レギュラー・バンドとしての旬な演奏内容になっているんですね!出演クラブに因んだ”Turbo”という曲がアルバムのラスト・チューンになっています。
ブッチは後年のインタビューでこの当時を回想していますが、レギュラーの仕事があったにもかかわらず、その日暮らしの生活で、「イタリア人街に住んでいたけどピッツァを買う金もなかった。」と語っている。金欠だったということは、この頃すでにドラッグに染まっていたのかもしれません。
<ハロウィン・パーティはたくさんだ!>
NYの暮らしは楽じゃなかったけど結婚をして家庭を持ち、友達は出来た。一番の親友はピアニストのソニー・クラーク。KDと共演した翌年、クラークが『Leapin’ and Lopin’』(’61)の録音に彼を推薦したのがきっかけで、アルフレッド・ライオンはBLUENOTEのハウス・ベーシストにブッチ・ウォーレンを起用、以来、KDとのリユニオンとなる『Page One』(’63)、デクスター・ゴードン(ts)の『GO!』(’62)など、ハードバップ期を代表する多くの名盤に少しソウルフルになったブッチのクリアで柔軟なビートが光っています。『Leapin’ and Lopin’』では、よちよち歩きできるようになった幼い息子への愛が溢れた”Eric Walks”を収録するほどの優しい父親でしたが、その陰に抱え込んだドラッグの悩みは、どんどん深刻になっていきました。少年時代、「サバイバル・ツール」として強い味方であったはずのジャズが今では家庭や自分自身までを破滅させようとしていました。
彼が恐れる死神の刃は、まず親友を奪った。’63年1月、無二の親友ソニー・クラークがヘロインの過剰摂取で死亡。場末の”シューティング・ギャラリー”と呼ばれるジャンキーの巣窟での哀れな最後でした。アルフレッド・ライオンに事件を知らされたブッチは妻子を車に待たせて、NYベルヴュー病院の死体安置所に並ぶクラークを確認します。31才のハードバッパーの死に顔は、そのまま自分の未来でもありました。葬式代もないクラークの末路を不憫に思ったパノニカ男爵夫人が葬儀の費用を肩代わりしてくれましたが、そこに送られてきたのはブッチが確認した遺体とは似ても似つかぬ別人のものだった。黒人ジャンキーの死体に、当局が敬意を払うはずもなかったんです。・・・ブッチはこの事件にひどいショックを受け、薬物依存症と相まって、精神は徐々に壊れて行きます。
この春、ブッチは時代の寵児、セロニアス・モンクのカルテットに入団、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップと共に世界でひっぱりだこになります。パリ公演や日本公演、ニューポート・ジャズフェスティバル!意気揚々の若手ベーシストであるはずが、日々多忙な楽旅がクスリなしでは耐え難いものだったのか、彼の精神はボロボロになり被害妄想を思わせる状態に陥っていました。
同年の夏、「 こんなバンド、クスリなしでやってられるかい!もうハロウィン・パーティはまっぴらだ!」と捨て台詞を吐き退団。”ハロウィン・パーティ”というのはジャンキーのたまり場を指す隠語で、辞めた後に、ハロウィンのお菓子をモンクに送りつけるという念の入れ方でした。
退団後ブッチはNYを去り、故郷のワシントンDCに舞い戻りました。初冬のワシントンで彼が観たものは、暗殺されたケネディ大統領の葬列でした。
「僕の周りの人間は皆死んでいく、僕もいつか同じ目に遭うんだ!」絶望と混乱に耐え切れず、ブッチは自ら精神病院の扉を叩き、要塞のように堅牢な聖エリザベス精神病院に入院、病名は「妄想型統合失調症」でした。この精神病棟で約一年間、ショック療法や投薬治療などを施されます。
ブッチ・ウォーレンの残された人生は「カッコーの巣の上で」のような生きる屍だったのでしょうか?(次号に続く)