巨星クラーク・テリー逝く… トランペット、フリューゲル、ポケット・トランペット、ある時は 掌に隠されたのマウスピースだけでの妙技、そして“マンブル(Mumbles)”と呼ばれる独特のスキャット、どれをとっても音楽の喜びに溢れる至高のミュージシャン!バックステージで初めてお目にかかった時に、指をパタパタしながら”ハッロ~~~~”ってめちゃくちゃ可愛い挨拶をされた姿が忘れられません。
クラーク・テリーといえば、もうひとつ思い出があります。寺井尚之と一緒にクイーンズにあるジミー・ヒース(ts)さんのお宅にお呼ばれした時のことです。料理上手なモナ夫人が夕ごはんを用意してくださって、いそいそテーブルに付きました、すると、「ディナーはこのクイズに答えてからじゃ!」そうジミーが言っておもむろにレコードに針を降ろします。
「ヘイ、先発ソロを取ってるのは誰や?3秒以内に言うてみい!」
ただでさえ大巨匠を前にして緊張してるのに、答えられなかったらどないしょう???…もう泣きそうになったけど、一秒で分かった!”Clark Terryですか?”と恐れながら答えると、”Yeah~! オーライト!!最近はわからんアホがたまに居るんだからな…Damn…”と例の甲高いベランメエ英語。めでたくお祈りをして夕飯にありつきました。
CTことクラーク・テリーはジミー・ヒースと大親友、ジミーが刑期を終えた後の初レコーディング”Really Big”にキャノンボール・アダレイ達と共に、プロデューサー、オリン・キープニュースに志願して参加しています。(奇しくも、CTが亡くなった数日後に、キープニュースさんもまた91才で大往生されています。)
「ジミーのレコーディングなら、いつだって最低ギャラで喜んで参加する!」スカッとした男気のある人です。
日本じゃ「トランペッターと言えば帝王マイルズ」と相場が決まっているのかもしれないけど、そのマイルズの若い頃のアイドルが同郷セント・ルイスで傑出した実力を誇るCTだった。マイルズがボクシングを好むようになったもCTに影響されたからだし、それどころか、麻薬でボロボロになった宿なしマイルズにホテルの自室を提供し、留守中に自分の所有品を一切合切売り飛ばされても慌てず騒がず、マイルズの父親に連絡して救済するように勧告した大人物です。
<生き神様>
CTは、カウント・ベイシー、デューク・エリントンのジャズ史を代表する楽団両方の全盛期に在籍した数少ないミュージシャン。「カウント・ベイシーOrch.は大学で、エリントンOrch.は大学院だった。」と彼は語っている。
エリントン楽団で一番仲良しだったビリー・ストレイホーンへの追悼盤『…And His Mother Called Bill/エリントンOrch.』での”Buddha”のソロは、哀しみを突っ切った底抜けの明るさと、いとも容易そうな超絶技巧で、ストレイホーンの極楽浄土を描いています。
独特のスイング感に溢れたMumblesスキャットが人気を呼んだオスカー・ピーターソンとの共演や、バルブ・トロンボーンの達人、ボブ・ブルックマイヤーの双頭コンボなど、活動歴は書ききれませんが、ジャズが下火になった’60年代になると、同胞ジャズメンの先鞭を切って、三大ネットワーク、NBCのハウス・ミュージシャンとなり、人種の壁を破った。そんなCT=クラーク・テリーさんは、米国の人間国宝、ミュージシャンにとっては生き神様!亡くなる数ヶ月前にはウィントン・マルサリス始め数多くの後輩トランペッター達がNYから貸し切りバスを駆って入院先のアーカンソー州の病院で、生演奏付のお見舞いを献上している。
<憎しみを乗り越えて>
CTのコンサートを観ると、底抜けにハッピーなエンタテイナーの顔と、鳥肌が立つほど至芸を磨き抜く厳しいアーティストの顔が、いとも自然に共存している。言葉や人種のバリアをスイスイ越えていく音楽の力で、米国国務省の親善大使として中近東をツアーしたり、クリントン大統領の命を受けて世界ツアーをしました。その音楽の力は、激しい人種差別の波にもまれた末のかもしれません。
’30年代からミュージシャンとして各地を渡り歩いたCTは、命の危険にさらされてきました。死別した最初の妻、ポーリーンさんも幼いころKKKの襲撃に遭い九死に一生を得ています。その際、一緒のベッドで寝ていた仲良しの従兄弟は幼くして庭先で吊るされ、酷い「奇妙な果実」になり果てた。
一方、CTは10代のときに、南部ミシシッピー州をカーニバルの楽団で巡業中の雨の夜、次の公演地へ向かう鉄道の駅で出会った白人に話しかけられて”Yeah.”(Yes,Sirでなく)と言ったのが失礼だと、こん棒で滅多打ちにされた。その男、殴っただけでは物足らず、リンチして吊るしてやると仲間を呼びに走っていった。ぬかるみで血だらけになって倒れているCTを助けてくれたのが、列車の白人乗務員達で、CTを抱え楽団の車両まで運んでくれた。すると、さっきのこん棒男が仲間を引き連れ大挙して戻ってきた。シャベルやつるはしやナイフなど様々な凶器を手にテリーを血眼で探している。すると、乗務員は「ああ、あのニガーか、面倒を起こす厄介者だから、俺たちがケツを思い切り蹴飛ばして、向こうの方へ転がしておいたぜ。」と全く反対の方角に暴徒を誘導し、そのおかげで命拾いしたと言います。
「殺そうとしたのも白人、命の恩人も白人」CTは、その体験から人種に対する憎悪を抱くことを止めたと言うのです。
彼が長いキャリアを歩むに連れて、人種差別は少しずつ改善されてきたけれど、その反面「黒人富裕層はバッハやモーツァルトだと、子弟にクラシックは習わせても、ジャズを演奏させることは好まない。全く残念なことだ!」と、晩年は音楽教育に力を入れて各地の大学でセミナー活動を行っていました。11人兄妹での7番目として貧困家庭に生まれたCTは音楽の先生に就くことも、楽器を買ってもらうこともありませんでした。
’90年代から糖尿病の合併症で視力が低下して以降、公の音楽活動は減少していきましたが、世界中からトランペット奏者が教えを乞いに彼の自宅を訪れています。2010年、グラミーで生涯功労賞受賞、公の葬儀はNYハーレムのアビシニアン教会で行われた後、ニューオリンズ式の葬送行進がウィントン・マルサリス達後輩ミュージシャンによって盛大に行われました。かつてダン・モーガンスターンは、いみじくも彼をこんな風に評しています。「成功しても、人間的にダメにならなかった男」
この男、なんでそれほどハッピーなんだ?
彼は余り眠ることをしない。
彼はビッグ・バンドを持ってる。
小さなバンドも持っている。
彼はちびっ子どもに教える。
レコードも作る、
彼はスタジオ・マンだ。
ブツブツ歌う。
この男、なんでそれほどハッピーなんだ?
それは彼がクラーク・テリーだから!
ダン・モーガンスターン
参考資料
- Downbeat magazine 1967 6/1号
- Downbeat magazine 1996 6月号
- I Walked with Giants : Jimmy Heath Autobiography
- Miles, Autobiography of Miles Davis
- Clark Terry Obituaries; NY Times, The Guardian, The Telegraph, et al.
tamae さんこんにちは.
結構長い入院生活だったのでしょうか.
人間的にもとてもとてもステキな人だったようですね.
”Keep On Keepin’ On” もいつか観てみたいなぁ.
motoさま、コメントありがとうございました。
CTは、足を切断されたのが数年前ですから、もうかなり長期間入退院されていたと記憶しています。
“Keep On Keepin’ On”は予告編見ただけですが、盲目の少年の指導からCTの人生を浮き彫りにする、みたいな作品のようですね。
もう少ししたらDVD入手しようと思っています。
ではまた~