コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)

colemanhawkins_by_terry_crier.jpg 撮影:Terry Cryer
<ホーク、ヨーロッパに行く>
 10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。

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 当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
  どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
 トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
 「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。
  やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。(’34)
ColemanHawkins.jpg新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
 トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
 サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。
 「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。
BennyCarter.jpg ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!
<Body & Soul>
 ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、’39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。
 普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
 これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
 テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。
<ビバップ>
 ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。
 チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。
<After Paris>
 ’50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?
 ’60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
 ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。
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 60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
 
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」
ハナ+ムラーツの24のプレリュード ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。
  最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが’68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように’69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。
 BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。
tommy_terai_1999.jpg  口髭を蓄えたトミー、’99 OverSeasにて。
  コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!
CU

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