寺井尚之のピアノ教室の発表会が25日に迫り、生徒達は稽古に明け暮れています。教室のピアニスト達の心意気をよしとして、発表会に激励の花束を届けて下さる長年の常連様がいらっしゃいます。私が二十代の頃からご贔屓に頂いていて、当店が世界に誇る常連様!美術、スポーツ、芸能全般に造詣深く、その夜のプレイの好不調関係なく受け容れて、若手ミュージシャンの成長を見守ってくれる度量の深さと、滲み出る上品さに、いつの頃からか、「パノニカ・マダム」とニックネームがついていました。パノニカ男爵夫人って知っていますか? ジャズ史上最も有名なパトロンとして圧倒的な異彩を放つ女性で、彼女に献上された曲はジャズ・スタンダード多数、トミー・フラナガンの名曲セロニカは、セロニアス・モンクとパノニカの友情に捧げられた曲です。
豹柄は大阪のおばちゃんのトレードマークだけどニカはちょっと違うね。セロニアス・モンクと。
私が昔ヴィレッジ・ヴァンガードで見かけたパノニカ夫人は多分70歳位だったはずですが、老婦人とは程遠いあでやかさ、満員の店の隅にいた彼女はまるでスポットライトが当たっているように目立っていた。「美貌」とか「センスの良さ」を超越する不思議なパワーを放っていた。その源は何なのか?路地裏インタールードの想像力は掻き立てられるばかり。パノニカが遺した大人の絵本、「Three Wishes :三つの願い」を片手に、パノニカ夫人を読み解いていこう。
<パノニカ的品格とは>
ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンの回想録にはパノニカ夫人の章があります。そこでゴードンはパノニカを「イギリス生まれの彼女は余りに上品で、彼女と会話をすると、思わず自分の言葉遣いに気をつけようという気になる。」と書いていますが、その後に引用される彼女の言葉はジャズ・ミュージシャン並のべらんめえ調、決してエリザベス女王や、NYの山の手イングリッシュみたいな言葉使いでは決してありません。
ギタリストのジョシュア・ブレイクストーンから、彼女の言葉に関する武勇伝を聴いた事があります。
NYの”ブラッドリーズ”というクラブにトミー・フラナガンが出演していた時、例によってニカ夫人が聴きに来ていた。不幸にも、演奏中に、酔っぱらいのおじさんが大声でしゃべるので雰囲気は最低…すると休憩中にニカ夫人が、その酔っ払いに近づいてにこやかに話しかけた。
「わたくしね、あなたの為に、ただ今詩を書きましたのよ。」
酔っ払いは嬉しそうに「ほう!どんな詩を?」と聞き返した。
するとパノニカは詩を吟唱し始めた。
『空は青く、花は香る…』
おっさんは懸命に耳を傾ける。すると彼女は、
『お前なんかクソくらえ!
Fu○k You, Fu○k You, Fu○k You!』と結んだそうです。ジャズ・ファンのお客さんはヤンヤの喝采で、酔っ払いはすっかり酔いが醒め、スゴスゴ帰っていったとか…
このウルトラ技は私には無理やわ!ダイアナ・フラナガンでも絶対できないだろう!
三島由紀夫の小説を引き合いに出すまでもなく、本当に高貴な人は庶民の物差しを超越したエレガンスがあるんだろうな…
漆黒の髪に引き立つ色白の顔、真っ赤なルージュとシガレットホルダー、鮮やかなドレスとパノニカ夫人の興味深い生い立ちは、「三つの願い」の序文として、ナディーヌが、孫娘の視線を通して書いている。
彼女の自宅キャット・ハウスにて。バド・パウエルと。
<ニカの生い立ち>
ニカは1913年というから、徳川慶喜が亡くなった大正2年、ロンドンで、キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド:Kathleen Annie Pannonica Rothschildとして、ユダヤ系財閥ロスチャイルド家に生まれた。
父は英国貴族、大銀行の頭取のチャールズ・ロスチャイルド男爵。どれほど華麗なる一族かは庶民には知る由もありませんが、日露戦争に日本が勝てたのは、この父上が昆虫採集(!)で来日経験があり、それがきっかけで日本政府が彼の銀行から莫大な資金供与を受けたからだと聞けば、なんとなく想像は出来る… ところが、この父上は投資の仕事や華やかな社交界には興味がなく、昆虫学が好きな趣味人で、新種の蝶を求めて世界行脚。(ニカの姉、長女のミリアム・ロスチャイルドも、世界的な動物学者です。)妻の故郷ハンガリーで彼が発見した新種の美しい蝶の名前、「パノニカ」をそのまま末っ子に与えたんです。
チャールズ・ロスチャイルド卿、イギリスの色んな場所に彼の名を冠したコテージがある
パノニカの母君ロジツカ・ワルトハイムシュタインは、世界史上最初のユダヤ貴族の血筋で黒髪と不思議な色の瞳で社交界の名花と謳われた正真正銘のお姫さま!つまりパノニカはおとぎ話に出てくるような両親から生まれた四人兄弟の末娘なんです。
幼い頃から美術の才を発揮し、18歳でパウル・クレーやカンディンスキーを輩出したドイツ、ミュンヘン美術学校に留学、生涯、趣味として抽象画を書き続けました。彼女の一族に音楽家は見当たりませんが、トミー・フラナガンのアルバム”セロニカや、”ビヨンド・ザ・ブルーバード”のカヴァー・デザインを担当した娘のベリットや、序文の著者ナディーヌも美術系のDNAを持っている。
<富豪の光と影:父の死とホロコーストのはざまで>
お姫様パノニカが最初に出会った悲劇は父の死だ。それはまだニカが10歳の時に起こった。父、チャールズ卿は脳炎に苦しんだ結果うつ病となり、46歳の若さで自殺したのだ。莫大な財産と、知性や教養を備えた父の病と自殺がニカに教えたものは何だったのだろう?
ニカは美術学校卒業後、ヨーロッパを旅行してからロンドン社交界の花として上流生活に戻るが、上流サロンやリゾート地だけでなく、飛行機を自分で操縦しようとする活動的な女性だった。’35年に飛行術の習得で訪れたフランスの空港でユダヤ系フランス貴族、ジュール・ケーニグスウォーター男爵と運命的な出会いをし結婚、フランスに家庭を持ち五人の子供の母となった。彼女が家庭を守る間、大戦の足音が近づく。
第二次大戦が勃発し、ナチのフランス侵攻が近づくと、ユダヤ人であるジュールとニカは、フランスを離れ、シャルル・ドゴール将軍率いるレジスタンス運動に身を投じる。夫がドゴール将軍が統括するアフリカに派遣されると、ニカは夫の後を追い、暗号官としてコンゴやガーナのネットワークを保持ししただけでなく、運動員たちを運ぶ女性運転手として命を賭けたのだ。この辺りが、ただのお姫様とは違うところだ。
「ニカのアフリカ系文化、すなわちジャズへの嗜好は、このアフリカでの活動が元になったのでは?」とナディーヌは序文で語っている。
夫妻がアフリカでレジスタンスとして活動中、上流のユダヤ人たちの殆どがヒトラーの挫折を確信し、「自分たちにあれほど良くしてくれたドイツ人やフランス人が私達を迫害することは決してない。」と疑わなかった。そして、フランスからの避難を息子に強く勧められていた夫の母親や、ニカの親戚達の大部分が自分の親しんだ場所から動かず、結果的にアウシュビッツで亡くなったのだ。
使い切れないほどの富も、知性も、高貴な血筋も・・・人間が欲する全てのものが、戦争の前には全く無力だった。ダイヤもドレスも取り上げられ丸坊主にされてガス室に送られた親戚の女性達・・・それらの不条理とアフリカでの体験が、その後、ニカの人生を決定したのだろうか?
ジャズ芸術の中に彼女のそれまでの悲劇を浄化してくれる何かがあったのだろうか?ジャズ音楽家の宿命に決定的な同志愛を感じたのだろうか?愛する芸術家達を守る為、世間の非難を省みず行った様々な行動は、彼女のそれまでの体験と、絡み合っているように思えてしかたがありません。
次回はアメリカに渡ったパノニカのジャズライフや、ミュージシャンたちが告白した「3つの願い」は何だったのか眺めてみよう。
17日のメインステムでCU!
OverSeasの’パノニカ マダム’が、騒がしいお客様にキレたところは、まだ見たことがありませんが、(笑)ニカ夫人というお方は、とてもカッコイイお姫様だったのですね!素敵過ぎました。
「パノニカ的品格」はとてもよく解ります。
私も、パノニカ マダムとお話をさせていただいたときは、何とか自分も言葉遣いに気をつけなければ!この人のように上品でありたい!と感じたのです。
ただのお姫様とは異なる、ニカ夫人の活動振りには本当に驚きました。
戦争によって、持つものすべてが無力になってしまったニカ夫人が、再度、生きる為に情熱を注いだジャズとの出会いとは?私には想像もつきませんが、次回も楽しみにしております。
コメントありがとうございました。
年をとると、品格というものがお金や試験ではもらえないものだというのがつくづくわかります。私も注意しなければ・・・もう遅いか・・・
次号にご期待ください!
tamae さんこんにちは.
またまた古い記事のコメントですみません.
この本はボクも日本語版のハードカバーを持っています、写真もいいし、ミュージシャンの生の声がこれまた面白い.
ただ表紙は本国盤とは違っていましたので、中の記事の写真も若干順番なんか違うのかもしれませんね.
実は最近になって Facebook にジャズ評論家の 小川隆夫 さんが登場しまして、そこにアップされたインタビューの写真に パノニカ へのインタビュー写真もありました.
さらにその写真、 パノニカ の前の席にはなんと Tommy Flanagan が座っていました.
ちょうどこの記事を読んだ後のことだったので、ちょっとビックリでした(笑)
la belle epoqueさま、こんばんは!
小川隆夫さんのブログで、ニカ夫人との邂逅を読んだ記憶があります。
フラナガン関連の日本制作盤に関わっていらっしゃった時のことだったような・・・ニカ夫人はフラナガンのNY出演時には必ず来られていたそうです。
何かのご縁ですね!
いつもありがとうございます!