ケニー・ド-ハム(KD)は、チャーリー・パーカーが彼を選んだ理由として「僕が彼のほぼ全演目について構成からアンサンブルに至るまで、完璧に知っていたからじゃないかな。」と語っている。ひょっとしたら前任者のマイルズから「僕が独立したら、次は君の番だから、ネタを頭に入れておいてくれ。」と言われていたのかもしれないけれど、この頃のジャズメンの掟は「譜面は門外不出」、隠し録りする機材もないし、それがどれほど難しいかは想像を絶します。とにかくKDは準備万端整えてネキスト・バッターズ・サークルに入っていた。
そういえば、生前のトミー・フラナガンがトリオでNYのクラブに出ると、色んなミュージシャンが壁際に佇み、必死の形相で、食い入るように見つめてた。私の隣にで五線紙と鉛筆持って集中する寺井尚之もご同様、「楽しい」なんて生易しいものではありません。休憩時間になると、そんな壁際の仲間が寺井の席に来て「さっきのあれ、なんや?」と情報収集。KDもそんな表情でバードのライブを見つめていたのかな?
1948年《Royal Roost》 にて。右端がケニー・ド-ハム夫妻、マックス・ローチ、一人置いてチャーリー・パーカー、一人置いてアル・ヘイグ、左端がミルト・ジャクソン:KDの娘さんEvette Dorhamのサイトより。
マイルズからKDへのレギュラー変更は、チャーリー・パーカー・クインテット初の人事異動でした。KDは体調の波が大きいバードのために、彼が不調なとき、遅刻したときも、バンドをまとめて”チャーリー・パーカー・ライブ”のかたちを作る片腕になりました。リズム・セクションは、マックス・ローチ(ds)、トミー・ポッター(b)、アル・ヘイグ(p)、バードの天才が閃くと、その輝きを真近で享受した。入団2日目、クリスマスの夜、《ロイヤル・ルースト》で彼らが演奏した”White Christmas”のビバップ・ヴァージョンは、後にトミー・フラナガンがピアノ・トリオのヴァージョンに変換して、今では寺井尚之の演目になっています。
1950年、KDは「ジャズでは家族を養えない。」とNYを退出し西海岸に引っ越した。叩き上げの一流トランペット奏者の決断は、同年、理想の音楽家であるディジー・ガレスピーの楽団が破産の憂き目に会ったことと大いに関係があるように見えます。KDはパジェロの海軍弾薬庫や航空会社などで粛々と勤務して給料をもらった。そんな生活は、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなり、ブレイキーに「ええ加減にデイ・ギグ(昼の仕事)辞めてNYに落ち着いたらどや。」と言われるまで続きます。
ジャズ・メッセンジャーズでは、6月18日に亡くなったホレス・シルヴァー(p)、ハンク・モブレー(ts)たちと活動、1956年に独立し、J.R.モンテロース(ts)を擁する自己バンド”ジャズ・プロフェッツ”を結成しますが、その直後にクリフォード・ブラウンが事故死、急遽マックス・ローチ(ds)に呼ばれ、ブラウン-ローチ5の後釜に入ったため、”ジャズ・プロフェッツ”はあっというまに解散。ディジー・ガレスピー楽団の崩壊とクリフォード・ブラウンの死、’50年代、ジャズの業界より、ミュージシャンを心底震撼させた2つの出来事がKDの人生に大きな影響を及ぼしています。
’50年代以降、フリーランス、つまり無頼派を貫いたKDは、ある時は工場で、ある時は音楽学校の教師やジャズ・モービル、ハーレムの貧困層支援プロジェクトHARYOUのコンサルタントなど、様々な活動をしています。”Quiet Kenny”というのは、ハイノートや超絶技巧を見せつけるのではなく、無駄のない抑制の効いたスタイルから、ケニー・ド-ハムについたニックネームです。名盤『静かなるケニー』を録音した’59年には渡欧し、バルネ・ウィラン(ts)やデューク・ジョーダン(p)達とリノ・ヴァンチュラ主演のフィルム・ノワール『彼奴を殺せ( Un temoin dans la ville)』の映画音楽の作曲や出演もしています。『静かなるケニー』の”Blue Spring”が映画冒頭に流れるテーマ・ソングなんですよ。
’62-’63年にはジョー・ヘンダーソン(ts)とコンビを組み、『ページ・ワン』を発表、”Blue Bossa”は永遠のジャズ・スタンダードとなりました。
’60年代の後半から腎臓病と高血圧に悩まされたKDは、だんだんトランペットを吹くことが難しくなり、ダウンビート誌で評論を書きながら、将来は教えることに専念する計画を持ち、NY大学の大学院で学び、’72年に亡くなるまで教壇に立ちました。
KDの死後10数年経ってから、寺井尚之とNYに行くと、ジミー・ヒース(ts)は「やっとKDの譜面集が出たから、必ず手に入れて帰りなさい。」と言い、出版したドン・シックラー(tp)にその場で電話をかけてくれました。次の日シックラーのスタジオに行くと「君たちがここに来た最初の日本人だ。」と歓迎してくれました。それから数えきれない日本人ミュージシャンが、レコーディングのお世話になっています。
<ロータス・ブロッサム>
KDは48年間の短い人生の中で、何度も音楽活動を休止して、音楽とは無関係な仕事に就きました。すべては妻と三人の娘さん達のためです。そんな生き方を不器用だとかB級だとか言うのはいけないと思います。彼は工場で働くことで、音楽の魂を売り飛ばさずに、信念を貫いたのではないのかな?だから、他の仕事に就いても、彼のマウスピースは錆びつかなかった。沢山の名曲も生まれた。理想を脇に置いて、コマーシャルな音楽をやり、お金と引き換えに品格を失う天才もいるし、逆に、音楽が「生活苦」という垢にまみれてしまうミュージシャンは沢山います。一方、KDは、家族への責任も、音楽に対する信念も、どちらも失わなかった。苦労を重ねるほど、作品と演奏が垢抜けするアーティストが他に何人いるでしょうか?それは、幼いころテキサスの田舎の農場で一人前に働いた体験が元になっているのかも知れません。
KDの子供の頃は、家に新聞もなかったし、よほど大きなニュース以外全く知らなかった。5才の頃、西部で銀行強盗を繰り返し壮絶な死を遂げたカップル「ボニー&クライド」の事件が、数少ないビッグニュースで、ボニーが死に際に自分の血で書いたという詩を、自伝に引用していました。生死の間にありながら、不思議なほど静謐なこの詩は、KDの音楽と何故かとても似ている。
地方紙に、ボニーがありのままの人生を詠った詩を、死に際に作ったという記事が載っていた。血で書かれていたということだ。こういう詩だよ-
ジェシー・ジェームスの一生はもう読んだでしょ。
彼の生き様と死に様を
もし、他にも何か読みたいのなら
ボニー&クライドのおはなしを。
彼の代表作”Lotus Blossom”は、泥の中から汚れのない美しい花弁を開く蓮の花、KDという人そのままです。『静かなるケニー』を聴く度に、私もがんばろう!と思います。
【参考文献】
- Fragments of an Autobiography by Kenny Dorham (Down Beat, MUSIC ’70s 資料提供:後藤誠氏)
- Notes and Tones : Musician To Musician Interviews / Arthur Taylor (Perigee Books刊)
- To Be or not …To Bop / Dizzy Gillespie, Al Fraser (Doubleday and Company 刊)
こんばんは
「ケニー・ドーハムの肖像」の連載記事はたいへん読み応えがあり、内容も興味深く面白いものでした。「クワイエット・ケニー」が有名なので、静かなイメージがありますが、波乱万丈な生涯ですね。
最近聴いてみた、セシル・ペインの「Patterns of Jazz」(Savoy)で、「Groovin’ High」をドーハムが吹いていましたが、今回のtamaeさんの記事で、ドーハムがこの曲が得意なのも当たり前だということがよくわかりました。
azuminoさま、ご無沙汰してすみません。
面白く読んでいただけてめちゃくちゃ嬉しいです!
ドーハムの自伝を読んだのは、もう20年前くらいになると思いますが、「クワイエット・ケニー」を聴くと、彼が幼いころ親しんだ汽笛の音が聞こえてくるように思えます。彼の娘さんがKDの伝記を執筆中らしいです。
日々の生活と音楽のエクスタシーが混ざりあうケニー・ド-ハムの音楽、これからも大切にしたいですよね。
tamae さんこんにちは。
この記事の中にも「ジャズでは家族を養えない」というようなことが書かれていましたけれど、中にはビックリするようなくらい稼いでいたミュージシャンもいたんですよね。
どうもこの辺りがよくわからないんですよね。
30年くらい前ですが、ボクが通っていたライブハウスに出演していた今では有名になった人たちも当時は C万、G千 とかいう金額でライブやっていました。
だからボクの印象では、総じてやっていくのが大変というイメージなんですよね。
この辺りの分かれ目ってどうなんでしょう?
la_belle_epoqueさま、こんにちは!
ジャズ・ミュージシャンが一番稼げたのは禁酒法時代かも…とはいえ、芸能界の所得番付は下位なのでは?
KDは事務所やエージェントの後ろ盾のないフリーランスでしたし、職人肌だから、しんどかったのだと思います。
トミー・フラナガンもフリーランスですから車も持ってませんでしたし、団地住まいの有名ミュージシャンも沢山知っています。
大学教員となるのが一番手堅い方法のひとつで、KDもそれを目指してたみたいですね。
分かれ目はやっぱ実力よりもエージェントかも・・・